9話
−グランドピアノの人(V)−
いつまでも続くと思われた沈黙を破ったのは、未だ姿を見ることのできていない、その人であった。
「・・・ふむ。これはこれは、珍しいモノが来たものだ。」
嫌味っぽい口調でそう言った。その口調は嘲笑っているかのような嫌味さを含んでいたが、それさえなければ耳に心地よい低音の上品そうな声だ。
「・・・名は?」
そう尋ねてくる低い声に、ネオンは一瞬躊躇した。見ず知らずの得体の知れない人間に自分の情報をそう簡単に渡してよいものなのかと思ったのだ。ネオンが答えるべきかと迷っていると、しばらくネオンの答えを待っていた低い声の主が
「・・・私はグレーズ。ロドルス・グレーズだ。
・・・お前の名は?」
先に自分の名前という情報を差し出したグレーズという男に、少しだけ警戒心を緩めたネオンは
「私の名前はネオン・グロリス。」
と、正直にそう答えた。そして、何とか正気に戻ってきていたネオンは、逃げ道の確保だけはしておこうと辺りを見回してみたが、暗くて何も分からなかったため諦めた。すると、
「・・・ではMs.グロリス、私は今とても退屈しているのだよ。」
何の前触れもなくそう言ったグレーズという男の声は未だ嫌味っぽさを含んでいた。ネオンはこの男が、面白がっているのだと思い、ムッとした口調で言った。
「だから!何な・・・のですか。」
苛つく気持ちは強かったが、この男が危ない奴ではないという保証はないのだとストップを掛け、語尾を和らげた。もし、逆上でもされてしまっては敵わないと思ったのだ。
「・・・ふむ。Ms.グロリスは、どこぞの馬鹿とは違うようですな。」
―な、なんなのっ!この男!?―
ネオンはそう思い、怪訝そうな顔をして黙っていた。
「・・・あぁ。気が付かないのも無理もない。
・・・Ms.グロリス、左隣をよく見てみることだ。」
男にそう言われたネオンは、最初は目だけを、次に顔を、最後には体ごと左方向を向いた。そして、目を見開くや否や、ネオンはズサッと音のするほど勢いよく後ろへ飛び退いた。
―何っ!?―
目を凝らしてよく見てみなければ分からなかったが、ネオンの隣には人がいたのだ。
それも、“消えかけ”の人が!
「なっ・・・!!」
言葉にならなかった。向こう側が透けて見えてしまっている“消えかけ”のその人は、ネオンには全く気が付かない様子で、何の反応も示さず、一点を見つめ続けていた。ネオンはその人の表情を見たことがあった。焦燥感に苛まれた表情で泣きじゃくり、歪んだ醜い顔で口をだらしなく開けたまま一点を見つめている、その顔は、あの絵に描かれたネオンの表情そのものだったのだ。
ネオンは言いようもない恐怖に、顔を引きつらせながらも懸命にグレーズに向かって言った。
「ま・・・まさか本物じゃないですよね。」
目の前の光景を信じられずにいるネオンは、恐怖と期待の入り混じった表情でグレーズに尋ねた。その時のネオンは、何かを強く懇願し、強く待ち望んでいる返事が返ってくることを心底、絶望の淵で待ち侘びているかのような顔をしていた。